各方面の報道について

大野病院事件 産婦人科医 加藤克彦被告に無罪判決 (詳細)(ある産婦人科医のひとりごと)
ここにたくさん貼られてますんで、これベースに。かなりてきとーに書いてます。
共同通信、2008年8月21日>

渡辺さんは会見後、県病院局を訪れ、医師の経験や医療設備に見合わない病院で難しい手術は行わない?などを柱とする要望書を提出。尾形幹男(おがた・みきお)病院局長は「関係機関と協議して回答したい」とした。

うーん、それでいいんならいいんですけどね。
そもそもこの患者さんは転院の勧めも聞かずこの病院で手術を受けたいと頑なに主張されてました。
その結果こうなったってことが身にしみたんでしょうか。

事故直後に遺体の解剖や癒着胎盤の保存など、きちんとした証拠保全がされていれば、専門家の意見がこれほど分かれることはなかっただろう。今回の逮捕、起訴は不幸な出来事だったと言える。

証拠保全については一理あります。が、亡くなったケースは全部やるぐらいじゃないと効果は薄いでしょうね。これは難しい。

最高検検事の土本武司(つちもと・たけし)白鴎大法科大学院長(刑事法)の話 医学の世界で一般的な方法だったことが証明されなければ、それを取らなかった過失責任は問えないという考え方は一般論では正当な判断と言える。しかし医療行為は人間の生命にかかわり、医師には患者の生命保護に最大限配慮すべき注意義務がある。判決が大量出血の予見可能性を認めた上で、胎盤のはく離を中止して子宮摘出に移行すれば最悪の結果は避けられた可能性があると指摘している以上、生命第一主義の観点から過失責任を認めるべきケースと考えられる。

まさか元検事から「生命にかかわる」という思考停止の言葉が出てくるとは思いませんでした。そして後出しじゃんけんのコメント。ちょっとありえない。

「守るべきルールがはっきりしている交通事故などと異なり、医療では患者の容体が刻々と変わる。治療技術も日進月歩で過失の判断が難しい」。医療過誤事件に詳しい弁護士の1人はそう指摘する。

まさに。

医療と司法の関係に詳しい樋口範雄(ひぐち・のりお)東大大学院教授は、警察の介入について「いいかげんな治療を真摯(しんし)に反省せず、漫然と見過ごしてきた医療現場の意識を変える“劇薬”になった」と説明。

今このタイミングだから言うのだが、これも一理はある。どんな分野にもいい加減な人がいるのと同じように、いい加減な医者が一部いるのは事実。
ただ、あまりにも劇薬すぎましたな。
<読売新聞・社説、2008年8月21日>

調査委構想は法案化目前まで煮詰まってきた。ところが医療界の中に、警察に通知する仕組みがある限り反対するとの声が強く、足踏みしている。

これは警察が「調査委員会の判断は必ずしも尊重しない。自分たちが思うとおりにやる」と言い放ってるから。
そんなんだと安心して警察に報告できない。やぶをつついて蛇を出すことになりかねないから。
朝日新聞・社説、2008年8月21日>

慣れない手術でまるで練習台のように患者を使う。カルテを改ざんする。そうした悪質な行為については、これまで通り刑事責任が問われるべきだが、そうでないケースについては捜査当局は介入を控えるべきだろう。

カルテ改ざんについては論外だが、練習台云々はちょっとどうかと思う。
スキルを上げるためには多かれ少なかれ実地で練習するしかない。そこんとこ分かった上で言ってるんだろうか?
毎日新聞、福島、2008年8月21日>

出産時の医療ミスが原因で次女を亡くしたとして、県立医大付属病院を相手に損害賠償請求訴訟を起こしている福島市の幕田智広さん(42)は「逮捕によって医療界の反発が起き、医療の体質の問題が隠れてしまった。癒着胎盤ばかり焦点が当たったが、別の医師からのアドバイスなど、悲惨な結果を回避する機会はあったはず。医療界は専門性をかさに責任免れしているように見える」と話した。その上で、「無罪の結果だけをとらえず、死に至ったプロセスを今後の医療に反映してほしい。医療が萎縮したといわれるが、医師は患者の生命を保証するプロ。逮捕よりもまず、知識と技能不足で患者を死なせることを恐れるべきだ」と語った。

うーん、状況を理解せずにしゃべってますな。事実誤認がある。
そもそも医師は患者の命を保証なんてできませんぜ。
まあ、患者側という括りだけで凸してコメントを取った毎日がアホなんでしょう。
毎日新聞・社説、2008年8月21日>

「癒着胎盤」という極めてまれな疾患に見舞われたケースだが、判決は手術中の大量出血のおそれを予見したり、手術方法の変更によって「結果回避の可能性があった」と認定した。刑事責任は認められないが、最善の医療ではなかった、とも読み取れる内容だ。

結果回避の可能性があっただけで、それが最善だったとは限らない。結果が悪かったから「かもしれない」に逃げたいだけでタラレバの最たるものですな。
その方法をとったら子供も助からなかった「かも」しれないんだぜ?
また、常にどんなケースでも最善を要求するのはナンセンス。
もちろん、そのための努力は限られたリソースの範囲内ではあってもよいが。